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大阪労山における海外登山50年史

2018/ 05/ 24
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 大阪労山における海外登山50年史

海外委員長 林 孝治(文中、敬称略)

 

1950年、モーリス・エルゾーグ率いるフランス隊が人類初の8000m峰、アンナプルナ1峰(8091m)の登頂に成功し、ヒマラヤ高峰登山の時代が本格化する。

1953年にイギリス隊が世界最高峰エベレスト(8848m)に初登頂し、1956年には日本隊がマナスル(8163m)に初登頂して、敗戦により打ちひしがれていた日本国民に明るい希望を与え、日本国内では空前の登山ブームが起きた。このような背景の中、1960年勤労者山岳会が結成され、1963年には日本勤労者山岳連盟として再発足し、1966年大阪に大阪府勤労者山岳連盟(大阪労山)が結成された。

大阪労山で海外登山の嚆矢(こうし)を放ったのは淀屋橋労山である。1974年、淀屋橋労山隊(島津昌泰隊長他9名)は、インド・ヒマチャルプラディッシュ地方のホワイトセール(6446m)を申請したが、軍事上の理由で、周辺の他の山に変更され、アリナトリ・ティバ峰(5470m)などの5000m峰に登頂した(なお、1992年当時、安治川山の会に所属していて、現在、カランクルンの青木 隆は、相模労山隊に加わって、ホワイトセールに登頂した)。

大阪労山隊として最初に派遣され海外登山は、1976年、アラスカのハンティントン(3731m)西壁のクライミングであった(織田博志隊長、他3名)。アルパインスタイルにより、2ビバークの末、完登された。なお、織田は、1981年のチョーオユー(8201m)全国連盟・ネパール合同隊(小松猛隊長)に参加。大阪労山から初の8000m峰登山への参加である。

1977年、全国連盟ナンダデヴィ(7816m)登山隊に吹田労山の槌田洋が参加した。また、1978年、全国連盟はガネッシュヒマールⅣ峰(パビール)(7102m)に登山隊(吉尾弘隊長)を派遣し、初登頂を果たした。この登山は、日本山岳協会から労山に、初めてネパール・ヒマラヤの推薦状が発布された登山で、労山にもネパール・ヒマラヤへの門戸が開かれた画期的なものであった。大阪労山からは安田、鈴木、下地の3名が参加した。

1978年の全国連盟隊に参加し、登頂を果たした安田一郎は、ヒマラヤ登山の機運を大阪に持ち帰り、1982年、ネパールのジュガールヒマラヤ、プルビチャチュー(6637m)大阪労山・ネパール合同隊(安田一郎隊長他、日本人隊員15名)を率い、14名が初登頂を果たした。

このプルビチャチュー登山隊に参加した西淀川労山の山野純子(旧姓、河野) は1984年、女性だけのヒマラヤ登山隊を組織し(隊名、アスタカニヤ隊、河野隊長以下6名)、インド・ヒマラヤのジェパング・ゴー峰(6053m)に向かい3名が登頂した。

クライミングの分野では、1973年城東クライミングクラブが、アラスカのボーナー峰(5030m)や ヨーロッパ・アルプスのブレチェール西壁などのクライミングに取り組んでいる。

また、197912月下旬から19801月末に本町山の会(山本武志隊長、池上、川原)が南米アルゼンチン・パタゴニアのフィッツロイの日本人初登攀を目指して遠征し、2週間アタックチャンスを待ったが、暴風止まず時間切れで撤退した。

1985年、雑木の会が設立10周年記念で、ネパール、ジュガールヒマラヤのドルジェラクパ(6966m)に登山隊を派遣し(中野長久隊長他6名)、全員が登頂した。その他、ヒマラヤ6000m峰では、1980年代に高槻労山がインドのCB山群に向かった(隊長、西川)。
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ところで、全国連盟では1988年以来、20数回、インドや旧ソ連の中央アジア、パミール、テンシャンなどで「高所登山学校」を開校し、それに参加した10数名の大阪労山会員も高所登山の経験を積んだ。

1989年パミールの国際キャンプに参加した井波美保は、1シーズンで、コムニズム峰(現イスモイル・ソモニ峰 7495m)、レーニン峰(7134m)、コルジェネフスカヤ峰(7105m)をハットトリックしたが、帰国途中に立ち寄ったヨーロッパ・アルプス、アルジェンチエール氷河で行方不明になった(山中で、最後に彼女と会話を交わしたのは、当時、フランスに在住していて1996年に大阪労山会員となる榊原義男である。その後、井波の遺体が発見され、現地に追悼に来た井波の婚約者を榊原が案内して、アルジェンチエール氷河を登り、帰路、懸垂下降中、支点のセラックが崩壊して、二人は転落、意識不明、瀕死の重傷を負ったが遊覧飛行機から発見され、奇跡的に生還した。因縁的である)。

1991年、中国雲南省の梅里雪山(6740m)で日中合同学術登山隊17名(日本側11名、中国側6名)が全滅するという中国登山史上最悪の遭難事故が発生した。この事故では1982年の大阪労山プルビチャチュー隊に参加した清水久信が医師として参加していたが、清水も犠牲になった。

林 孝治は全国連盟隊に参加して1994年シシャパンマ(8027m)、1995年ダウラギリ(8167m)と2年連続して8000m峰に登頂した。なお、1995年のダウラギリ登山では、同日、林より遅れて登頂した「チーム84隊」隊長、俵屋義久が最終キャンプに帰着せず、「チーム84隊」のメンバーが誰も最終キャンプにいないため、林は翌日、再度、頂上近くまで捜索に向かったが、発見するに至らなかった。

19958月には、大阪ぽっぽ会が20周年記念登山でマッターホルン登山(早川隊長他、隊員7名)を行い7名が登頂した。

1996年、大阪労山30周年を記念して、中国新疆ウイグル自治区のムスターグアタ(7546m)に登山隊(林 孝治隊長他9名)を派遣し、6名が登頂した。

このころ、林 孝治が大阪労山海外委員長に就任した。海外委員会は、海外遠征の都度、研究会として不定期に開かれていたが、具体的な計画が無いときには開店休業状態であった。林は、海外委員会を原則、月1回と定例化した。これによって、多くの計画、企画が話し合われ、以下のような旺盛な海外登山、トレッキングが実現した。

1997年にはネパール、アイランド・ピーク(6189m)、1998年にはアイランド・ピーク(6189m)とプモリ峰(7161m、林隊長など3名が登頂)などを計画、実施した。

さらに、ヒマラヤ以外の山域でも登山やトレッキングを実施した。1998年モンゴル・アルタイ山脈最高峰フィテン峰(4374m5名登頂)。199812月~19991月のエクアドル・アンデスのコトパクシ峰(5896m)、チンボラソ峰(6310m)に登頂。20007月~8月にはペルー・アンデスのイシンカ峰(5530m)、トクヤラフ峰(6032m)、ペルー最高峰ワスカラン峰(6768m)、アルパマヨ峰(5947m)などに登頂。この時、トクヤラフ峰では、榊原義夫、宮本俊浩、吉田周一の3名が、それぞれソロで400mに及ぶ氷壁を登攀して登頂した。宮本は新ルートからの登頂となった。

長期休暇が取りにくい人達にはヨーロッパ・アルプスが人気で、19977月福島労山隊(田中隊長、他3名)がイタリアのドロミテでトレチメなどを登攀した。また19988月には福島労山の阪上、杉本の中級登山学校同期ペアが女性二人だけでマッターホルンに登頂した。

200012月と20015月にはメキシコ最高峰オリサバ峰(5699m)。20016月、アラスカ、デナリ(マッキンリー)峰(6194m、林隊長他5名)登頂などヒマラヤ地域以外にも旺盛に登山を繰り返した。

20017月、海外登山志向の強いメンバーが中心となって、山の会カランクルンを創設し、大阪労山に加盟。ますます、旺盛に海外登山、トレッキングを実施した。

2001年9月ネパール・ヒマラヤ、ランタンリルン峰(7234m、林 孝治隊長他8名)。順応登山でヤラピーク(5540m)、ナヤカンガ峰(5844m)などに登頂した。

ところで、ネパール、パキスタン、中国チベットのヒマラヤ登山の際には、日本山岳協会発行の推薦状を添付して各国の担当部署に許可申請をしていたが(労山隊は、労山全国連盟会長の推薦状を得た後、日本山岳協会に推薦状発行を申請という手間があった)、大阪労山海外委員会やカランクルンの旺盛なヒマラヤ登山申請の過程で、各国登山規則には、推薦状が必要とされていないこと、すなわち日本独自の決まりであることが明らかとなり、2002年、日本山岳協会もそれを認め、推薦状は不要となり、誰もが自由にヒマラヤ登山を申請できるようになった。

2002年、カランクルンではアイランド・ピーク(6189m)、モンブラン峰(4807m)に登頂。そのあと、ロシア・コーカサスのエルブールス峰(5642m)、ケニア山(5199m)、キリマンジャロ峰(5895m)に連続登頂した。また200211月、榊原義夫(カランクルン)と宮本俊浩(大阪ぽっぽ会)はネパール、クスムカングル北峰(6364m)にアルパインスタイルで登った。

2002年札幌中央労山チョモランマ(エベレスト)登山隊に参加して登頂した野口光二は大阪労山中級登山学校の修了生であった。

2003年、大阪労山の単一山岳会としては初めての8000m峰登山がカランクルンにより実施された。中国チベット、チョーオユー峰(8201m)(林 孝治隊長、他4名)で、4名が登頂した。当時、きたろうハイキングクラブに所属していた国枝宏子は、大阪労山初の女性8000m峰登頂者となった。またチョーオユー登山の順応登山として、中国四川省の大姑娘(タークーニャン)山(5025m)、中国チベットのジャンスンラモ峰(6325m)にも登頂した。

同年10月、榊原と宮本はネパール・ヒマラヤ、クーンブ地方の、解禁されたばかりのチョラツェ峰(6440m)にアルパインスタイルで取り付いたが、5200m付近で、岩壁が広範囲にわたって崩落し、それに巻き込まれた榊原が墜死した。大阪労山初のヒマラヤ死亡事故である。事故当時、林はメラピーク(6476m)登山でまた杉山豊隆(大阪ぽっぽ会)などはアイランド・ピーク(6189m)登山で、近くにいて事故一報と共に現場に駆けつけたが、救うことができなかった。

 ヒマラヤの国ネパールでは2001年王室で銃乱射事件が発生し、ビレンドラ国王や王族が殺害され、弟のギャネンドラが国王に即位。ギャネンドラは前国王の民主化政策を覆し、議会も停止して専制政治を進めたため、国内に国王に対する不満が蓄積。マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が山間部を中心に勢力を拡大し、政府軍との間で、内戦状態となる。そのため、ヒマラヤへ向かう登山者の足は鈍り、他の地域に向かうことが多くなる。

カランクルンでは2004年は、アンデスのウルス峰(5495m)、イシンカ峰(5530m)、ピスコ峰(5752m)に登頂。またロシア・コーカサスのエルブールス峰(5642m)にも登頂した。さらにキルギスタン・天山のハンテングリ峰(7010m)にも向かった。ユニークな所ではオーストラリア最高峰、コジオスコ峰(2228m)に登頂するなどした。これによりきたろうHCの国枝宏子とカランクルンの小西圭子は5サミットを達成した。

また、2005年にはアトラス山脈(モロッコ)の最高峰ツブカル山(4167m)に登頂。そのあと、アンデスのウルス峰(5495m)、トクヤラフ峰(6032m)、チョピカルキ峰(6354m)にも登頂した。同時期、大阪ぽっぽ会の一丸がトクヤラフ峰でガイドによるロワーダウン中、ロープが伸び、岩に当たって骨盤を骨折した。

林は2006年にはアコンカグア峰(6959m)に登頂し、その後レーニン峰(7134m)にも登頂。グアテマラ最高峰 タムフルコ峰(4220m)、パカヤ火山(2550m)、メキシコのトルーカ峰(4704m)、マリンチェ峰(4461m)と中米の山々にも足跡を残した。

2007年、林はアラスカのデナリ(マッキンリー)峰(6194m)に登頂。その後、ヨーロッパでは2007年、2008年、2010年にアルプスのモンブラン峰(4807m)などに登頂し、さらにスウェーデンの最高峰ケブネカイセ峰(2103m)にも登頂。アフリカではケニア山(5199m)登頂後、キリマンジャロ峰(5895m)に登頂し、次年の2008年にはメルー山(4562m)で順応後、キリマンジャロ峰(5895m)に再度登頂した。

2009年もキリマンジャロ峰(5895m)に登頂した。キリマンジャロにはそのあと2011年、20122014年、20162月、8月に向かい、大阪労山からも多くの登頂者を輩出し、海外登山の楽しみを知ってもらうことができた。

2009年、2010年、2012年にはギアナ高地のロライマ山に登頂しエンジャル滝にも遊んで、ヒマラヤ登山だけに限らない、海外登山の楽しさを大阪労山の諸氏に伝えた。

2010年にはボリビアのワイナポトシ峰(6088m)に登頂した。この登山には7サミットを達成し、8000m5座に登頂して、2013年ダウラギリに逝った河野千鶴子が参加した。独自のトレーニングや呼吸法を隊員に伝授していた。

また、2010年、2014年、2016年、2017年シャクナゲの時期には台湾の最高峰玉山(3952m)や雪山(3886m)が定番となり、ハイカーの人にも富士山よりも高い山々を楽しんでもらうことができた。

また、カランクルンでは内戦状態(と言っても、戦闘に巻き込まれ、被害にあった外国人はいない)のネパール・ヒマラヤにも果敢に向かい、2004年はトゥクチェピーク(6920m)、2005年にはロブチェ東峰(6119m)とアマダブラム(6812m)に登頂した。また2006年には2度目のプモリ峰(7161m)(林隊長以下4名)を目指したが、最上部のセラックが崩壊し、それに誘発された雪崩で、北東稜にて行動中のカランクルン隊のシェルパ2名、イタリア隊のシェルパ2名が巻き込まれ、4人が命を落とした。行動中だった林と松岡は間一髪で雪崩の直撃を免れ生還した。

この年、ネパールでは停戦合意が成立し、2008年には王制廃止が議決され、ギャネンドラは王宮を去った。

この2008年、カランクルン隊(林隊長以下3名)はメラピーク(6476m)で順応後、 バルンツェ(7129m)に登頂した。

2009年はマナスル峰(8163m)(林隊長、以下4人)に向かった。カランクルン単体で行った2座目の8000m峰登山である。また夏にはモンスーンの影響の少ないチベットのラクパ・リ峰(7018m)にも登頂した。

2010年夏はインド、ガルワールヒマラヤのトリスル峰(7120m)に向かったが、こちらはモンスーンの影響で雪の状態が良くなく断念した。冬はアコンカグア峰(6959m)に向かった。

2011年、カランクルンではチョモランマ(エベレスト)峰(8848m)登山隊(林隊長以下4名)を組織した。出発直前、東日本大震災が発生したが、中止できず、出発。ネパール側のアイランド・ピークで順応後、チベット側から登頂を目指したが、フィックスロープの設置状況が悪く、危険なため8700mを最高到達点として、登頂を断念した。

一方、この年、カランクルンの斎藤留美子は公募隊に加わりマナスル(8163m)に登頂した。大阪労山で女性二人目の8000m峰登頂者である。

2012年、林隊長以下3名が、アメリカ、シアトルのレーニン峰で順応したのち、アラスカのデナリ(マッキンリー)峰(6194m)に向かった。この時、下山途中の宮城労山隊(扇等隊長他4名)の全員がクレバスに転落。扇隊長だけが生還した。林は扇隊長の帰還をサポートした。

2013年、カランクルンの後藤皓二朗は父親の属した大阪市立大学山岳会のドルジェラクパ(6966m)登山隊に参加し、亡き父の夢は息子に引き継がれた。

2014年、林はアイランド・ピーク(6189m)に10回目の登頂を果たした。多くの労山会員を登頂に導き、ステップアップに貢献した。

 2015年ネパールで大地震が発生し、ランタン谷をはじめ、なじみの深い地域が多大な被害を受けた。海外委員会やカランクルンでは義援金を募り、現地に送り、支援活動を行った。

 斎藤留美子はペルーのブランカ山群でイシンカ峰(5530m)、トクヤラフ峰(6032m)、ワスラカン峰(6768m)に登頂した。

 2016年、大阪労山創立50周年記念で、エベレストパノラマトレッキングを実施。15名参加で世界の屋根の展望を楽しんだ。

 また、カランクルンの林はアマダブラム(6812m)とチュルー最東峰(6038m)の登山を実施した。

斎藤留美子は南米ブランカ山群のピスコ(5752m)、アルパマヨ南西壁(5949m)、キタラフ北壁(6036m)を登攀し登頂した。また秋には、チョーオユー(8201m)に登頂し、2座目の8000m峰をゲットした。

また、後藤皓二朗はアメリカ、ヨセミテのエル・キャピタンのザ・ノーズの登攀に成功した。

また、大阪ぽっぽ会の久松は単独で、デナリ登頂を果たしたが、そのあと、ハンテングリは天候不良のため、登頂はならなかった。

 2017年、林はキリマンジャロ(2月、8月)に登頂。また、4度目のデナリに向かったが登頂はならなかった。

 創立50周年を記念した大阪労山と兵庫労山の合同登山隊が、西ネパールの無名峰(6080m)に初登頂した。

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